肥田舜太郎

肥田舜太郎

1917年広島に生まれる。1944年陸軍医学校卒業、広島陸軍病院に就任。1945年8月6日たまたま広島市郊外の戸坂(へさか)村に往診に出ていたため原子爆弾の直撃は受けなかったが、その日から凄惨な無数の被爆者の治療にあたる。1947年に上京して国立医療労組を設立するが、1949年レッドパージで国立国府台病院から解雇される。また日本人の原爆に関する調査・発言を一切禁止したアメリカ軍当局に逆らい、三度逮捕される。 1950年独力で西荻窪診療所を設立。1953年埼玉県に移転し行田診療所を設立、全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)創立に参加。以後全日本民医連理事、埼玉民医連会長、埼玉協同病院院長、日本被団協原爆被害者中央相談所理事長などを歴任。1975年ニューヨークの国連本部に乗りこんで、それまで「広島・長崎の原爆による死者は6万人(実際は21万人)、二次被曝の影響はなく、生存被害者はすべて健康」とする国連の公式見解を改めさせる。それ以後、世界のべ37カ国を回って原爆の被害の実情を訴え続ける。1985年にはフランス国営テレビの原爆投下40周年記念討論会に参加し、アメリカ側の原爆肯定論者を徹底的に論破する。2009年に医療活動から引退後も、執筆、翻訳、講演活動を続け、2011年の福島原発事故後に急増した取材・講演依頼に老躯をものともせずに応え、全国で400回もの講演をおこなう。

・著書

『ヒロシマ・ナガサキを世界へ―被爆医師の反核語り部世界行脚』(あけび書房、1991年)
『広島の消えた日―被爆軍医の証言』(初版・日中出版、1982年/増補新版・影書房2010年)
『ヒロシマを生きのびて―被爆医師の戦後史』(あけび書房、2004年)
『内部被曝の脅威』(共著、ちくま新書、2005年)
『内部被曝』(扶桑社新書、2012年)
『被爆と被曝―放射線に負けずに生きる』 (幻冬舎ルネッサンス新書、2013年)

 


 

 

三田 茂

三田 茂

東京小平市で開業していた三田茂医師は、東京・関東の子どもたちの血液、特に白血球の数値が低くなっていることを明らかにしたが、2015年春「東京は人が住めるところではなくなった」と言って岡山に移住した。

 

 


 

 

野原千代

野原千代

2012年8月9日に発表された研究論文「福島原発事故の生物学的影響」は日本では全く無視されたが、海外ではシュピーゲル紙、BBC、ABC、CNNなどによって大きく取り上げられた。プティジャン監督もル・モンド紙の同年8月17日の詳細な記事を読み、沖縄へ行って琉球大学の研究室で取材した。2014年11月29日のジュネーヴでの「放射線の遺伝子への影響」と題した講演も大きな反響をよんだ。2015年10月28日急性心不全で死亡。何度も福島で蝶の採集を行ったことが原因ではないかと疑う余地がある。

 

 


 

 

水津 聡

水津 聡(ナレーター)

愛知県出身。脚本家/倉本 聰主宰の富良野塾10期生、現在北海道富良野を拠点に俳優活動中。主な出演作品、倉本 聰主宰<富良野GROUP>公演「歸國」、「悲別」、「マロース」、「ノクターン」他、坂手洋二主宰<燐光群>公演「星の息子」、「カウラの班長会議」。映画では「さよならとマシュマロを」に出演。現在、<富良野GROUP>公演2016「屋根」で、北海道富良野を皮切りに全国ツアー中(東京2/5~7新国立劇場中ホールにて)。映画「ゲーテ診療所」はカフェマメヒコにて2016年春公開予定。